傍にいること

もうすっかり恒例となってしまったこの状況。それでも決して嫌気がささないのは、単にその人であるからだった。
普段は完全無欠といえるほど『いい人』であるルファはしばしば本物の聖人といわれている。
この場合は他の面々が際立って捻じ曲がった性格なだけなのだか、それにしてもこれだけ性格が捻じ曲がる要因が多い人生を送っていながら歪むことがなかったのは、まさしく奇跡の聖人サマと言ったところか。
《時の聖者》ルファ、今自分の目の前で怒っている者の名だ。
なぜ怒っているのかはあまりどうでもいいことだった。おそらくは勝手に私室に入ったから、とかだろう。怒って赤くなっている顔よりもさらに赤くなっている目に、涙のあとが見える。血の色が混じって曇った金色の虹彩はどう見ても直前まで泣いていたことの証だ。
「よいか、二度とこんなことはしてくれるな! いっそ一生涯顔を見せてくれんでも結構だ!」
「断る」
即答したら高速の平手がとんだ。左の頬が痛い。
「出ていけ」
声を張ることもなく、一音ごとにはっきりと言い放たれた言葉にも一六八は臆することはなかった。慣れ以上にルファの本心を理解しているからこそ。
幻想でも自惚れではなくこの聖人を一番よく解っているのは自分以外にいない自負が一六八にはある。 「断る、と言ったら?」
「僕が出て行く」
即答された。ここまで鮮やかに拒絶されてしまうといっそ清清しい気もするが、引き下がるのはなんとなく癪であった。
「さっき、」
部屋を出ようとするルファの背中に一六八は言い掛ける。ルファは振り返ることも動作を休めることもなくドアノブに手をかけた。
「リジンとウーロンがお前を探してた。今出て行ったら鉢合わせるかもかもな」
 動きが止まった。こちらからは見えない顔はさぞくやしさが滲んでいることだろう。
今のまま出て行けば泣いていたことがばれてしまう。そのことにどんな意味があるのかは分からないが、ルファは他人に弱みを見せることを極端に嫌っていた。理由がわからないのは、その理由さえも弱みだからだろう。
ルファは無言のまま踵をかえすと、一六八の横を通り過ぎそのままベッドに倒れこんだ。泣き顔がばれるくらいなら自分と一緒にいたほうがましということか。
「案外俺の扱いってひどいのな」
ここで出て行けと押し切られれば出て行かないこともないのに、特に要求はない。もはや眼中にないのかあえて視界からはずしているのか。どちらにせよ咎めがないなら出て行く必要はないはずだ。いつもそうであるように。
普段はさまざまな感情を押し込めて、臨界点に達したら今のように自室に引きこもって独りで泣いている。恋に患う十代の少女のような行動だがまあそれはいいとして。
皆を支える先輩であるために、強き師であるために、清き聖者であるためにやっていることもかまわない。ルファがそう生きることを望んでいるならば、それで。
でも。

言葉を交わすこともなく、交わす言葉も見つからずに、気づけば外は日が落ちていた。部屋の隅からじんわりと闇が溜まっていく。
ベッドに倒れこんだままのルファは、いつの間にか眠っていたようだ。うつぶせの背中が微かにだが規則的に上下している。
結局なにも言えないまま、今回も終わってしまった。
ずっと私室にいた一六八は寝ているルファの傍へ行く。
頬のすぐ横を流れる真緑の髪にそっと触れて、頭に軽く手を置いた。起きているときはこんなことさせてはくれないだろうが、こうして触れてみるとルファは思っているよりずっと小柄だ。
肉体が心を映す鏡ならば、ルファはこんな小さな身体に全てを隠して生きているのだろう。
「まったく……。馬鹿だよ、お前は」
他人の気も知らないで、と一六八は心の中で付け足した。
隠し通せるはずなどないのだ。長い付き合いになれば、特に。リジンとウーロンも師匠に元気がないから探していたのに。
「弟子にかっこつけるのはかまわないけどよ…」
自分にまで格好つけられても困るのだ。気を張らなくていい相手として、一六八はルファの傍に居るのに。
(―――――君にね、守って欲しいひとがいるんだ。そう、緑色でね、すごく可愛い―――…)
最初はただの他人の惚気だった。それがこんなことになるなんて。
「鈍感聖者」
寝ているのをいいことに一六八は言いたいことを言った。その勇気が起きているときにも出せればいい、と思わないあたり彼も相当鈍くはあるが。
発端となった人物への感謝や怒りと原因となった人物への想いとが頭の中でごちゃごちゃになる。全ては彼のおかげであり、彼の所為だった。
一六八は色々なことが綯い交ぜになっていく頭を一旦空にして、時計を確認した。
19:20、そろそろ夕餉の時刻となる。
さすがに夕食に顔を出さなければいよいよ本気で弟子が部屋に押しかけて来かねない。それはルファの思うところではないだろう。
仕方ないなと言いながら、一六八はルファを起こすことにした。