降りしきる雨の中で

目の前を埋める雫に、彼は寂しげに微笑んだ。もう動かせない手の中に、真っ白い羽根が一枚。周りに散っている血まみれの自分の羽根とは大違いな、純白の羽根が彼の手にはあった。
ああ、と彼はため息をついた。あの人がないている。これは報いなんだ、と。
この雨はあの人の涙だ。自分はあの人に酷いことをした、あの人を傷つけてしまった。どんな言い訳も通じないほどに、あの人はきっと俺を怨むことなく泣くんだ。永らえてしまった余生を後悔にあてて、きっと。
降り続ける雨音に混じって聞こえる靴の音も、今の彼にはどうでもいいものだった。

石畳を血に埋めて、一羽の鳥が落ちていた。腐れ落ちた羽根に輪冠のなくなった頭。一目見てそれとわからないそれを見て、青年は静かに呟いた。
「珍しいね…この魔界に天使が落ちているなんて」
雨にかき消されそうなほどの声は、しかし天使に届いていた。地面に突っ伏したままの体勢で、天使は目だけで青年を見やる。
こんな雨の日に傘も差さない青年に天使は特に何も言わなかった。話す必要はない。じきに最期がくるだろうから。
「堕天使、だよね。羽根が朽ちてて輪冠もない。強制転送でここに来たんだ?」
「…そういうアンタは…悪魔、だな…?」
「その通り。地の眷属、黄獄の悪魔さ」
雨粒の滴る角をわずかに動かして、青年は肯定した。
「なんで堕ちて来たの? 天使は総意たる神に逆らえないように造られているはずなのに。僕たちので懲りてなかったのかな、神族は」
できればほっといて欲しかったが、悪魔の領土に天使が落ちているのは相当に珍しいらしく青年はほうっておいてくれそうになかった。好奇心に目を輝かせて質問してくる。応える気はないが。
「それとも、理由なんてないのかな?」
何気なく言われた言に、天使はわずかに眉をひそめた。混沌を映したような目に、微かに光がさす。
「大切なひとを護りたかった。そのために同族を殺した。だから…堕ちた」
「そうか…」
天使は同じ天使を殺めてはならない。それは神に定められたことだった。神に造られたものとして、神に背けば追放される。だれしも知ることだが、実際に追放された天使を見るのは青年は初めてだった。
「天使はみんな機械みたいなんだと思ってたよ。僕らが戦ってきたのは―――少なくともそうだったから。君みたいに、神の法を破れる人もいるんだね」
悪魔の青年は独り言のように呟いた。天使は呟きを鼻で笑う。
「神なんて関係ないさ…本当に大切な、愛する人のためにやったんだ。間違ったとは思ってない。でも…」
「でも?」
「後悔はしてる。わかっていたはずなのに、アイツが泣いてるのを見て辛かったから」
天使の頬に雨粒よりも速い雫がつたった。どんな非難も受けようと思っていたのに、あの人は俺を罵るどころか泣いて謝ったのだ。自分の所為で、ごめんなさい、と。
そういう人だとわかっていたはずなのにどうしても踏みとどまることができなかった。死にたくないと笑うあの人を見たら、あの人を陥れた奴らが許せなくなってしまったから。 
声を殺して泣く天使に青年は黙ってつきあった。しばらく雨音のみが響いた空間で、尋ねる。
「それで…君はこれからどうする?」
「さあな」
「よかった、死ぬ気はないんだね」
「……」
わざわざこれから、と訊いたこと。死ぬならばそういえばいい。濁すということは迷ってるということだ。
笑顔で差し出された手を、天使はしぶしぶ取って起き上がった。魔界の空気に慣れないせいか辛そうだが、それでも先ほどよりはましになっている。
ふと天使は思いついたことを口にした。
「アンタ…変なヤツだな」
「よく言われるよ。まぁそれは置いといて、君にとってはここは見も知らぬ異郷の地ということになる。具体的な話をしてみようか。これから、どうする?」
「どうするって言われてもな…」
ため息を吐いて、天使はしばし考え込んでから
「……なに考えてやがる?」
「面白いこと」
言い切る青年はまさしく悪魔の笑みだった。身の毛はよだたないが、嫌な汗がにじむような。
「僕は、ちゃんと理由があってここに来たんだよ。君が堕ちてきたのと同じように。実は臣下が占いで、今日僕の国に正体不明の来賓が来ることを視たんだ。それのお迎えに、ね」
「『僕の』…国?」
「そう。天界ではどのくらいの刻限かは知らないけど、今のこの国ではこんばんわね。じきにわが物となる国へようこそ。僕は蛍=トパーズライト。君は?」
「ちょっと待て。トパーズライトってことはここは黄獄で、アンタは………王族?」
先ほどまでの表情が浮かばないほどにポカンとして天使は尋ねた。国の名を冠する姓を持つのは王族の、しかも正血統の者だけに限られている。悪魔の王は護衛もつけずに出歩くものなのだろうか。
「さっきからそう云ってるじゃないか。ほら、君の名前は?」
「…アマリリス」
名乗ると、蛍は何度かアマリリスの名前を反芻してからうなずき、手を差し伸べてきた。手袋をはずした手は王族というには程遠い、戦う者の手だった。
「あ、君に毒はないよね? その名は外敵を殺す毒花の名だから…」
「さあ、どうだろうな?」
天使はにやりと笑った。ここに来て初めて見せる笑顔。青年はおかしな悪魔だった、天使を見ても攻撃してこないなんて。
悪魔にとってもアマリリスは初めて会うタイプの天使だ。天使が笑ったり泣いたりするのを、少なくとも彼は今まで生きてきた中で見たことがない。
「その手を取れば…俺はどうなるんだ?」
「さあ。なにか変わるかも。変わらないかも。君次第かな」
「そうか」
「うん、そう」
それでは答えになってないじゃないか、とはアマリリスは言えなかった。変わるかどうかわからないのは確かにその通りだ。むしろ変われないことのほうが多いかもしれない。でも、

『変われなくても出来ることはあるだろう?』

言ってくれた人がいた。自分も変われないけれど、一緒に出来ることをやっていこうと手を引いてくれる人が。そして変われた。その人と、いつの間にか。
今回も変われるかもしれない。差し伸べる手はその人ではないけどその人に通じる手ではある。ひと時でも会う方法を探すことは、彼に出来ることの内だ。
「…さよならを言ってなかった」
「?」
「何遍も…謝ったり謝られたりはしたけど別れのあいさつはしてなかったんだ…堕ちてきたとき」
「そうか。じゃあ、もっかい会いに行かないとね」
「ああ」
短い返事と共に、堕天使は悪魔の手をとった。