或明夜話 一 ●焦がれるもの

春に雪のふることもあるといわれますが、ならば冬に春雨のごとき水がふることもあるのでしょうか。
そんなことを思いながら、或はいま自分のとなりにいる傘を持つ者を見上げました。


とある明るい夜のこと。
ぼたぼたと音をたてて落ちる水のなかに猫と傘を持つ人がいました。
傘を持つ人は細くながく降る雨のなかで立っていました。雨は或の横にある街灯の明かりを抱いて淡く輝いています。その輝く雨のカーテンにすかして、ちらちらと降りつづける雪が見えました。
商店街に人影はありません。今朝からやまない吹雪のせいで、人は外に出るのをいやがっているからです。明るいうちからまばらだった人影は、暗くなるまえには完全になくなっていました。
「今晩は、或どの」
「こんばんは紫さん」
傘を持つ人は、その名通りの紫色の目で雪を見すえたまま猫にあいさつをしました。或も、応えます。
「こんな夜に外に出ているなんて、あなたにしては珍しい。それとも今夜はあなたが外に出てくるほどに大変なことが起こるのですかな」
紫は微笑んだままです。
「私には、残念ながらこの夜に参加する資格がないものでねえ」
ため息のように、或は一息つきました。
「あっしも、今回は切符を持っていないのです」
「ほう」
或は尻尾に溜まった水滴をはらうように振りました。「いま、外に出ているのに?」
紫は微笑んだままでした。
「或どの、たとえ舞台に立っていたとしても、自分には関係のない物語もあるのです。いつも使っている電車の乗客がたとえば殺人鬼だったとして、電車に乗り合わせる大勢はきっと殺人劇の役者にはならない。彼らにとっては常と変わらない乗客のひとり、でしょう?」
「あなたが人を殺していても、私には関係ない。と?」
「…関係したいですか?」
頬をつたう水にかまうことなく、紫は雪を見ていました。
ふいに、街灯の明かりがなくなりました。どころか商店街のどの建物からも光が消え、通りは一段暗くなりました。
ふり続く雨に音はありません。地面に積もっている雪が、雨が地を打つ音をかき消しているからです。
「傘を、ささないのですかい?」
或はまつげに溜まった水滴をはらうようにまばたきをしました。落ちる水滴に音はありません。
紫は答えませんでした。その手にたずさえられた緋色の傘は、さしてもいないのに水に濡れています。ひとりでさすには少しだけ、大きな傘でした。もしかしたら紫よりも背が大きい人が使っていたのかもしれません。
「雨がお好きで?」
「ええ…」
吐き出された息は白く、春雨にかき消されることもなく天へ向かいます。
紫のかんざしからつたい落ちた水滴が、かしゃりと小さく音をたてました。
「冷えますよ、紫さん」
「そう…ですね」
名残雨のなか傘をさして、紫はすぐうしろにある自分の店に戻りました。閉店と書かれた看板をうらがえし、戸をあけると、
「寄っていきますか、或どの」
尋ねてきましたが、或は、
「今日はえんりょしときますよ」
と答えました。
とある明るい夜のこと。
明かりの消えた街灯にはもう凍りついた雨の痕だけがありました。