オセロ

4.

差し込む斜陽にウィムは紅玉の瞳を細めた。
「どうかしたか?」
後ろにつき従う男が尋ねてきたが、ウィムは小さく首を横に振った。
「いえ…夕日が、奇麗だと思いまして」
遠慮がちに云う。
成人手前にしてはやや小柄な体躯が抱える不釣合いの大きな杖は、聖人が公の場に出るときに使う儀式杖で、つまりは彼が聖人であることを示している。付き従う男は協会員の制服を着ており、小脇には赤い聖典があった。制服の徽章が示す階級は、司祭。
「あ、なにか急ぎの御用でもありましたか?」
「いいや、そんなことはない」
基本聖人は一人につき司祭が一人以上付き添うことになっている。下級聖人ならば司祭が掛け持ちでつくこともあるが、上級聖人ともなれば司祭は聖人を主君のように想い忠誠を尽す。協会が行っている聖人検定において1級の実力を認められているウィムに就いている男にとって、ウィムに付き従うこと以上に重要なことなどない。
そして、男はこんな風に彼を眺めている時間が嫌いではなかった。
「僕、ここの景色が結構気に入ってるんです」
はにかむように笑っているウィムは、聖人という重々しい肩書きなど纏わぬ一人の少年に見えた。
二人が立っている西の塔の渡り廊下は、協会本部のある聖都を一望することができる。結構な高層にある廊下の割りに壁も無ければ手すりすらないのは安全性以前の問題だが、あまり外に出られない上級聖人にしてみればこの開放感が良いのかもしれない。
杖に巻きついた飾り布が一筋の突風になびいた。杖を支える聖者は風を受ければ倒れてしまいそうな印象をうけるが、でもそんなことはなく聖者はそこいる。それはそれで瞬きの後には消え去ってしまう夢幻のような儚さを感じさせるのだが。
「冷えるぞ」
いくら夏とはいえどまだ入り始め、しかも夕暮れ時の高所となれば寒さは身に沁みるものとなる。聖装は薄着ではないが、長く風に当たるのは身体に良くないだろう。
気遣いは十分だが言い方のやや悪い男の言葉に、ウィムは照れたようにはい、と頷き眼下に広がる街並みから視線を外した。通常時歩くように、先行くウィムの斜め後ろに付き従う形で廊下を渡りきろうとしたとき、風にまぎれて気がつかなかった『音』に気づいてウィムはドアノブを掴もうとした手を止めた。「どうかしたか?」尋ねる男に「あ、いえ、何か…」と応えながら一歩身を引こうとした瞬間、 勢いよく内側から開いた扉に《宿命の聖者》は弾き飛ばされた。

《時の聖者》に庭を出た後、ガヴリエルは数人の元を回っていた。
どうやらオセロはガヴリエルが駒の所属を探している間にも配られていたらしく、誰かに声を掛ける度にその人物がオセロを受け取ってから経過した時間が縮まっていた。最後に話した者に至っては、オセロを貰ってからまだ一時間と経っていないのだと。
なぜわざわざオセロを配っているのか。皆の話を総合した結果、ガヴリエルは夕日の差し込む階段を駆け上るという現在に至る。
一つ、オセロを大量に手に入れた経移はほんの偶然だったらしい。どこぞの孤児院に寄付する予定だったおもちゃの発注書の桁数を間違えたため、余ったオセロを引き取ったのだと香具代の従者が言っていた。
二つ、引き取り人の名義はディヴァリーズ兄弟になっているが、実際に配っているのは次女のバニラだけであるということ。これはオセロを貰った者の話もそうだが、今日ディヴァリーズ兄弟は《宿命の聖者》と共に公開祭儀が行われる予定があったからである。祭儀を抜け出すのは彼女の十八番なのだ。
(そして三つ目…)
ディヴァリーズ兄弟は今日の夕刻から出張で遠方へ出ることになっている。兄弟揃って行う今日の祭儀を、堅物の兄が抜け出すことを許可したのは明日から協会本部を空けるからというわけだ。桁単位で間違われたオセロセットから欠けた一つを探すにはバニラに聞くのが一番早い。兄弟のように明日には居なくなる者もいるだろうから、兄弟が発つであろう刻限までにバニラを探さなくてはならない。
問題は、その結論に至るまでに日が傾き始めてしまったことだ。
(ちっくしょぉぉぉおおお〜!!)
ガヴリエルは華麗なステップで踊り場を曲がりながら、誰に対してか分からない叫びを心の中で吐いた。
別にたくさんあるオセロセットの内、一組が一つ分欠けていても特にガヴリエルには関係のない話ではあった。普通に遊んでいても何かの拍子に失くしてしまうこともあるだろう。というかそもそもオセロセットには大抵予備の駒が一つは付いている。
そんなことは解っていた。それでも、落し物はどうしてか見捨てられない。目の前に落ちていて、もしも自分がどうにか出来るものならばどうにかしてやりたい。
何故そう思うのかも解らなかった。誰かが困っているから、というのは理由ではないだろう。普段さんざんおちょくられている姫彦や一六八が困るのならば放っておいただろうし、見も知らぬ者の為に何かが出来るほど自分は高尚でもないはずだ。上級聖者の肩書きは、人格ではなく能力に付くものなのだから。
香具代の従者と共に居た、《星の聖者》暦。《運命》と《宿命》と仲の良い彼が、自らが父と呼ぶ香具代と同じような雰囲気で―――だがしかしその貌に含んだような微笑みを湛えて、今日の祭儀なら西の塔で行われたと話した。塔で行われる祭儀では、聖者は塔の外ではなく二階に退場するので塔の上にある渡り廊下から協会本部までのあたりに居れば会えるのでは、とも。基本兄弟で行動を共にしているディヴァリーズ兄弟なら、そう考えるのが妥当ではある。
何回目だか忘れてしまった踊り場を曲がり、渡り廊下のある階が目前となった。なぜこんな使いにくい構造をしているのかガヴリエルには理解できないが、そのへんはデザインとか様式とか言われてしまうと納得するしかない。
行き先のわからない憤りをぶつけるように、壁と同じような彫刻の施された金のドアノブに手を掛けて押し開けると。
扉の向こうから誰かの声にならない声と共に、いつもより若干重い扉の手ごたえを感じた。

扉に弾かれ、ウィムは声にならなかった息を吐いて宙を舞った。そのまま従者の肩にぶつかり、自立することもままならぬままバランスを崩す。廊下の、床の外へ向かって。
「ウィム!!」
ぶつかった衝撃で後ろに倒れた従者の男は倒れ行く体勢のまま手を伸ばし、主人の腕を掴んだ。だが落下の勢いを殺すことは出来ず、男も廊下の外に投げ出される形となってしまった。
驚きに目を見開きこちらを見つめるウィムと、その背後に聖都の街並みが見えた。このまま落ちる、そう理解した時、男はとっさに掴んでいた腕を引いて庇うように聖者を抱きしめていた。聖者の頭に回した腕の中から、デヴィッド、と彼の名を呼ぶ声が聞こえた。

「―――――なっ…!」
起こったこととは対照的に軽い混乱の声を漏らしながらも、ガヴリエルは扉で阻まれ見えない場所の状況を最悪のパターンで想定し、走りだした。
一歩踏み出して見えた光景はまだ最悪とまではいかなかったが、良いとも言えないものだった。聖装をしているのは《宿命の聖者》アルド・ウィム、そして従者の―――――。
(間に合えっ!!)
渾身の力で伸ばした腕はガヴリエルの望みを汲み、従者の腕を掴む。間一髪で渡り廊下に宙吊りとなった《宿命の聖者》とその従者だったが、人二人分の体重を支え続けられるほどガヴリエルは屈強ではなかった。抜けそうな片腕を支え、もう片方の腕が床にへばりついて踏ん張っている。
一瞬、自分の奇跡のことが頭をよぎったガヴリエルだったがその思いを振り払った。自分の奇跡は名の通り3分32秒後に発動する。とても今のままで3分は保てそうにない。かといって、従者に自力で上がってこいと言う事もできない。ガヴリエルがとっさに掴んで解けた腕の反対側には、彼が守るべき聖者がしっかりと抱えられているのだから。
「おい」
「…なんだっ」
「手を離せ」
「はあっっ!?」
腕に意識を集中していてまともに返事のできないガヴリエルに、デヴィッドは言葉少なに言い放つ。なにを、と言い返そうと宙吊り状態の二人に目を向けると、先程落ちかけていた時には無かったものが映った。
色白の、老いたように骨ばったガヴリエルの身の丈ほどもある長い五指。それが、ゆっくりと巻きつくように廊下を掴むと、その指に引っ張られるようにウィムとデヴィッドは廊下に舞い戻った。
着地の際にデヴィッドはウィムを庇ってクッションになったため、立ち上がるのはウィムのほうが早かった。自分を守ってくれた従者を気遣ってから、聖者は長く変形した指を元に戻した。
そういえば、とガヴリエルはウィムの奇跡のことを思い出した。ウィム自身の奇跡はお目にかかったことはなかったが、同質の奇跡を持つと云われている《運命の聖者》は体変形を特技としていた。同質と云われるからにはウィムも同じ奇跡を持っていてもおかしくはない。
とまれ、二人が無事に廊下に戻って来たことにガヴリエルは安堵のため息を吐いた。ついでに、言わなくてもいいことが口から出る。
「あんたは《宿命の聖者》と心中するつもりか…?」
「突き飛ばしたのは貴殿だろう」
至極もっともな返答だったが、ガヴリエルは憮然とした。自分の非は認める、だが…。
「もっと言ってあげて下さい、ガヴリエルさん。僕から言ってもちっとも聞かないんですよ」
困ったように笑うウィム。彼にはガヴリエルの気持ちが解っているのだろう。
聖者は階級が上に行けば行くほど奇跡の質が上がる。一般的でない奇跡が多い下級に比べ上級は一般人も一目でそれと解るものが多く、最上級の聖者ならば誰でも持っている奇跡の一つに《復活》があった。文字通り死した後復活するという奇跡で、これにより聖者は不死とは呼ばれなくともそれに近しい存在になるということだ。もちろん一級聖人たるガヴリエルやウィムも《復活》の奇跡を持っていた。
もしあのまま落ちていても、ウィムならば復活することが出来たのだ。
「…いや、まあ…とにかくすまなかった。ここはあまり人通りが多くないし、祭儀はまだ続いているものだと思っていたから」
「結果的にみんな無事ですから、お気に病む必要はありません。ディヴァリーズのみなさんに出張があるから今日は早めに切り上げられたんですよ」
「そうか…」
そういうこともあるだろう、思ってから、ガヴリエルはふと嫌な予感を覚えた。早めに終わった祭儀に出席していたウィムが、今ここに居る。
「ディヴァリーズ兄弟は、まだ下か?」
退場に用いる通路がここだけなのだから、今ウィム達と一緒にいない場合兄弟はまだ塔の下にいるかもうここを離れた後ということになる。
「いいえ、もういないと思います」
不思議そうにウィムは答えた。ガヴリエルはがっくりと肩を落とす。と、いうことは回れ右をして探し直すのか。
「今日はみなさん一階に降りて出て行きましたから」
「なに?」
意外な答え。前に聖者の暗殺未遂事件があって以来、よっぽどのことが無い限り聖者は一般人と接近しないのが決まりだったはずだが。
「ここの廊下を使うと遠回りになりますから、一般の方々がはけた後で外を通っていくとシトラスさんが仰ってました。…お探しなのですか?」
「ああ、まあ…」
「だったらこんなところにいる場合じゃないじゃないですか! ディヴァリーズのみなさんは日没には協会を発ってしまうんですよ!」
まるで自分のことのように慌てるウィムを見て、ガヴリエルは場違いながらもしみじみと(この子は聖人なのにいい奴だなあ…)と思った。自分の周りがアレなだけなのかもしれないが。いや、そんなことはないか。
「では、僕達はこれで」この場にいたらガヴリエルを引き留めてしまうと思ったのか、ウィムは一礼をしてから司祭を連れて渡り廊下を去っていった。
せっかくのウィムの気遣いを無下にはできない。ガヴリエルは気を取り直してウィムたちとは逆の方向へ走りだした。

先程自分を吹っ飛ばした扉をくぐり、階段を数段下りる。ふと立ち止まったウィムに、デヴィッドは「どうした?」と尋ねた。
「さっきのこと…」
「…?」
「…ありがとう、ございます」
振り返らずに、ウィムは言う。
「たとえ司祭の務めだからという理由だけだったとしても……庇っていただいたことを、僕は嬉しく思います」
他の聖者達よりも扱いやすい性格の所為か、ウィムは他の聖者よりも公的な会合や祭儀に出席する率が高い。それはつまり生命の危険に晒される確率も高いと云うことだ。ほとんど不老不死に近い一級聖人である彼は、幾度その命が暗殺の危機に晒され―――そして、それが見過ごされてきたのか。前任者達がどのような人だったのかデヴィッドには知る由も無いが、死ぬ事のない聖人のために命を投げ打つ覚悟がある者はそうはいないだろう。
何か言おうと開きかけた口が、ウィムの言葉でさえぎられた。振り返った彼は笑顔だった。
「でも、次はやらないで下さいね。……絶対に」
最後の一言に念を入れて、ウィムは再び階段を降り始めた。返事は要らない―――――いや、返事をさせないためだろうか。聖者の奇跡には読心もある。デヴィッドが考えていることを察知して、事前に釘を刺したのかもしれない。
『何度でも、お前を助けよう』
心の中でそう唱え、デヴィッドは彼の聖者を追った。