或明夜話 一 ●飛びいるもの

とある明るい夜のこと。
そこそこ高いビルのてっぺんに猫と男がいました。

猫がいつものお気に入りの場所に行くとその男がいたのです。屋上のフェンスの外側に腰掛けて、にこにこと目を細めて街を眺めておりました。

「やあやあお兄さん、何が見えますかな?」
「街が、」
猫が尋ねると、男はあとに言葉が続きそうな調子で至極当たり前のことを言いました。年のころ二十歳を半ばほど過ぎた風な男は、非常に端正な顔立ちにふんわりとした淡い鳶色の髪を流し、明度も彩度も低い薄物を織っていました。
そのいたるところに粉砂糖の雪を積もらせており、猫は数目見て頭のかわいそうな人かと思いました。 「―――あと、雪ですね」
「その通りですな」
猫は頭に積もった雪を尻尾で払いました。
「あ、」
「どうなされました?」
呟き声と共に男はこちらを向き、猫の姿に目をぱちくりさせて、そしてからまた元の笑みに戻ってゆっくり頭を下げました。
「お晩でございます、猫さん」
「こちらこそ、お兄さん」
猫も深々と頭を下げます。
互いにあいさつを終え街に視線を戻すと、いつの間にか雪は止んでおりました。一匹と一人がいる場所から見えるのは真っ白い街と、赤くて明るい夜の空ばかりです。
街に人はいませんでした。大通りの街灯が照らす道は足跡一つも消し飛んで、先ほど雪の重みで鉄塔が倒れてしまったせいで建物は墓石のようにひっそりとしています。
「静かですなあ」
「ええまったく」
今度は猫から話出します。男は静かに相づちを入れます。
「昔はこんな夜も多かったものですがね、今は騒がしいことばかりです」
「ええまったく」
「明るい夜も、目立ちませんからなあ。びかびか光る元に居るから、みいんな頭上に蓋をしちまって空を見ようともしない」
「ええまったくですね」
何度か、猫と男は応答を続けました。適当な相づちを入れてるようですが、男は猫の云いたいことがよくわかっていました。猫もそれに気がついているようで、特に文句も言わずに話を続けます。
やや長い時間が経ちました。時折吹き抜ける風が、積もった雪にささやかな模様をつける程の時です。 すっと男が立ち上がりました。身体中に積もっていた雪が落ちて、背筋を伸ばした男は猫が思ったよりも背がありました。
「行かれるのですかな」
「ええ、」
男の、裸足の足首には銀色の環がついておりました。
「もう行かねば。呼んでいます」
初めのときのにこにこした笑顔ではなく、すこし寂しげに微笑む男に猫が苦笑します。
「そんな、今生の別れと云うわけでもありますまいに。そんな顔しなさんな。どうせこの街にいるのだから、また会えますよ」
「…はい」
小さく返事をして男は帰り路を踏み出しました。
名残惜しむようにゆっくりと、5歩ほど進んで男の背中が止まります。男は猫に向き直りました。
「鳥羽、と申します」
雪を撒く風に吹かれて男はその身に似つかわしい名を名乗りました。
猫は目を細めて、その姿に見入りました。
「わたしは或。ワクと云いますよ」
猫の名を聞くと鳥羽は安心したように笑って街へと消えていきました。
ワクは白い街に飛んで行く白い翼を、その姿が見えなくなるまで眺めていました。

とある明るい夜のこと。
そこそこ高いビルのてっぺんに猫がいました。